豊臣秀吉に嫌疑をかけられていた柳生石舟斎宗厳は太閤検地により隠田摘発で領地を失い柳生一族はその地を追われることとなった。石舟斎は新陰流を絶やさぬよう小さな村に質素な道場を創設すると村をあげての騒ぎとなり、その噂は瞬く間に広がり京まで届くのであった。
道場創設を聞きつけた徳川家康(当時、山城伏見城の普請を務めていた羽柴江戸大納言)より石舟斎の『無刀取り』の腕前を図るため接見を切望しているとの書簡が届く。
没落した柳生一族の本貫の返還を掛けた接見になると確信した柳生宗矩はこれを好機と捉え父石舟斎を説得。石舟斎は京へ向かうことを決意するのであった。
一方、秀吉のいる聚楽第へ向かう長政、家康が石舟斎と接見する事を秀吉へ伝えると怒りに狂い今すぐに石舟斎を抹殺するよう長政に命じるが、突如姿を現した服部半蔵が石舟斎へ奇襲をかけ抹殺することを約束する。道場で旅支度を終える宗矩へ「寅の刻」の出発を告げる石舟斎、寒空に浮かぶ月があたりを照らし『子の刻から亥の刻』まで、間断なく石舟斎を襲う苦難の旅が始まろうとしている。
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文禄三年三月八日
2021年10月13日(水)公開